Ⅲ. 智慧と法界の覚知
from 詩情と密教の手引き_嵯峨
#秀歌30 #ガイドライン
Ⅲ. 智慧と法界の覚知
自己を超越した普遍的な真理と、世界との一体感を説く教えです。
歌番号
詩情(歌の情景)
密教の教えとの関連(法話の核心)
身土不二
照滴026:みほとけはいづこに在します西方の 十万億土か五尺のこの身か
仏が遥かな浄土にいるのか、自分の「五尺の身」にいるのかと自問する。
身土不二(しんどふに): 世界(土)と自己(身)は二つに非ず。真理は遠くにあるのではなく、この世の現実と自己の内面に偏在しているという教え。
大曼荼羅
新滴045:五尺の身は仏の在(ま)します大曼荼 菩薩は笑い 明王は瞋る
自己の五体が、菩薩や明王といった仏を宿す壮大な館であるというイメージ。
大曼荼羅(だいまんだら):衆生の肉体の全ては、仏の姿や智慧を描いた曼荼羅そのものであるという「自己の神聖化」。
重々無尽
露滴089:蚊のまつ毛の先に止まれる焦螟の その毛の先に浄土ありけり(列子_湯問)
蚊のまつ毛の先の虫の、その毛の先という極小の世界に、無限の浄土が含まれているという観念。フラクタルな世界観。
重々無尽(じゅうじゅうむじん): 一つの塵の中に無限の世界が映し込まれており、全てが互いに影響しあっているという華厳の世界観。
一切衆生悉有仏性・相互礼拝相互供養
宝滴045:微笑めば 一時の仏ぞ 君と我れ 仏と仏が 見つめ合うなり
「微笑む」という日常的な行為を通して、自己も相手も一瞬にして仏と等しい存在になるという、「悉有仏性」の普遍性を説いています。自己と他者の隔てがなく、全てが仏として相互に敬い合うという理想的な法界の姿を簡潔に表しています。また、この歌は、「微笑む」行為を通して、自分と相手がお互いに仏として敬い合っているという、相互礼拝相互供養の、言葉を超えた深い真実を伝えています。
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう):全ての命に仏になる可能性があるという教えの集大成。自己を肯定することで、全ての存在を肯定する境地。
相互礼拝相互供養(そうごらいはいそうごくよう):「一切衆生悉有仏性」の教えを実践に移したものです。「自己も仏である」「他者も仏である」であるならば、仏と仏が相互に礼拝し、供養し合っているのです。
法話の際にこの歌を引用されることで、聴衆の皆様は「仏様を拝む」という従来の信仰だけでなく、「隣の人も仏様である」という、より身近で実践的な慈悲の心を育むことができるでしょう。
法界説法
露滴100 雷鳴は怒りか獅子吼かその声は 如来の大慈悲子守唄なり
恐ろしい現象である雷鳴を、仏が真理を説く獅子吼と捉え、さらにその根源は「大慈悲」、すなわち全てを包み込む愛であると悟る。厳しい教えと優しい慈悲が一体であるという法界の真理を、劇的な比喩で表現しています。
法界説法:自然現象の全てが、仏の大慈悲から発せられた教えであるという悟り。
法身説法・即身成仏
露滴117 ありがたや胸の鼓動は説法なり さては我が身も仏なるかな
大乗仏教の究極の教理である「一切衆生悉有仏性」「法身説法」を応用し、その結論を「我が身も仏なるかな」と自己の存在に適用しています。詩ではなく宣言に近い調子であり、五部作を通じた求道の旅の到達点を象徴しています。自己の凡夫性を完全に超越し、仏としての自己を確信する歓喜に満ちた歌です。
空しい存在だと思われた自己も、実は仏そのものであると悟り、自己肯定へと至る、シリーズ全体の結論となる一首です。